茶道は総合芸術といわれます。
お茶碗、お茶入れ等お茶をたてる道具から始まり、掛軸、お花など床の間に飾るもの
お香や炭など嗅覚を刺激するもの、茶室の内装、露地(茶室に至るまでの茶庭)など
それらすべてを尊重し、調和させる統合力。
もてなす側にはそのセンスが問われる事から、茶道のひとつの側面として総合芸術という言葉が使われます。
今回の記事では、心理学におけるフローという概念を使って、もてなす人ももてなされる人も「総合芸術」の構成要素のひとつとして考えてみます。
フロー状態とは
フロー状態とは、人間の幸福や「楽しみ」、創造性などを研究した心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した概念で、時間を忘れるほど対象に没頭・没我している状態。
ゲームにハマっている時、仕事に没頭している時、性行為をしている時なども一種のフローにあたり、その最も深い状態がトップアスリート等が体験するゾーンといわれるものです。
フロー状態に入る条件はこちらの記事にも書きましたが、この7つです。
①明確な目的
②自律性(自分で決めてやっている感覚)
③取り組む事が限定されている。集中できる
④直ちにフィードバックが得られる
⑤今の自分にとって、程よく難易度が高い
⑥目的だけでなくその活動自体に本質的価値を感じる
⑦行為と意識の融合(自分は何か大きなものの一部と感じる)
フローはおもに個人で入るものとして語られる事が多いですが、グループ・集団単位で入る事もあり、これをグループフローといいます。
集団で入る《グループフロー》の条件
グループフローの条件は個人のフローと重なる部分があり、チクセントミハイの弟子のキース・ソーヤーいわく
①適切な難しさの目標
②ディープリスニング(「今」をありのまま感じる)
③完全な集中
④自主性
⑤メンバーのエゴがコミュニティと融合する
⑥全員が同等
⑦適度な親密さ。暗黙知、共通理解
⑧不断のコミュニケーション
⑨先へ先へと進める
⑩失敗のリスク
⑩失敗のリスクとは例えば、ジャズのセッションでいうとグループフローに入るのは本番中で、リハーサルで入る事はほとんどない。
凡才の集団は孤高の天才に勝る―「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア
この「失敗するとまずい」というある種の緊張感が必要なようです。
グループフローの例は、
- ライブ、コンサート
- バスケットボールなど動き続けるチームスポーツの試合
- 祭
- 士気が高い状態での戦争
などが挙げられます。
最もグループフローの条件を満たしているのは恐らく最後の例で、世界三大戦略家のひとりマーチン・ファン・クレフェルトは
自分という存在が消滅し、大義と一体化する
という趣旨のことを言っています。
茶室を舞台としたグループフロー
さてでは茶道においてはどうなのか。
グループフローの条件に当てはめてみます。
茶事茶会においては、主客ともに五感(もしくはそれ以上)を研ぎ澄まして「今」を感じます。(②ディープリスニング)
床の間に飾られた掛軸、花、釜から湧き立つ音、立ち上がる湯気、お香の匂い、懐石料理、和菓子、そしてお茶。
茶室に入れば全員が同等で、主客ともに作法が決まっている。(⑥全員が同等⑦共通理解、暗黙知)
お茶を点てる時もお茶をいただく時もお道具を鑑賞する時も、目の前のこと・ものにシングルタスクで集中します。(③完全な集中)
言語を用いたコミニュケーションは少ないですが、客は亭主に(無自覚のもの含め)サインを送り、亭主はそれをキャッチします。(⑧不断のコミュニケーション)
主客ともにそれぞれが目的を持ち、ほどよい緊張の中、誰かが出しゃばるという事なく会は進行します。
(①適切な難しさの目標⑩失敗のリスク⑤メンバーのエゴがコミュニティと融合⑨先へ先へと進める)
このように、もちろん参加者次第ではありますが茶事茶会はグループフローの条件を多く備えています。
茶道におけるグループフローは、日本文化的にいうと「調和している状態」と言い換えることも出来るかと思います。
実際にフローの概念を提唱したチクセントミハイも、フローに入っている時は
自分の行動を全て支配しているという感覚があり、その中では、自己と環境の差も、刺激と反応の差も、過去・現在・未来の差もほとんどない。
と言っています。
グループフローの条件
⑤メンバーのエゴがコミュニティと融合する
⑥全員が同等
について
茶道は総合芸術という観点から、「メンバー」と「全員」の範囲をもう少し掘り下げて考えてみます。
八百万の神としての茶室、茶道具、亭主、客
八百万の神という考え方では、形あるものから無形の現象に至るまで、すべてのものに遍く神が宿るとされます。
それは私たち人間も例外ではありません。
神社で鏡を目にする機会が多い理由のひとつとして、参拝者自身に宿る神を写す事が挙げられます。
客人は茶室に入ると、床の間に飾られている掛軸や花などを手をついて鑑賞しますが、その際必ず自分の体と対象の間に扇子を横にして置きます。
これは扇子を結界と見立て、「聖なるもの」に対峙しているという敬意の表れ。
日本の食卓でご飯が出る時にお箸を横にして出すのも、実は同じ意味の見立てです。
茶道では会の始まりと終わりの挨拶の時、主客が向かい合って畳に座り、同じく互いに体の前に扇子を置いて頭を下げます。
茶室に入る時も、襖を開けた状態で体の前に扇子を置きその空間自体に頭を下げます。
つまり時間を共にしている人達、その空間自体も「聖なるもの」としています。
茶道におけるグループフローを「調和している状態」とみなした場合、その条件における
⑤メンバーのエゴがコミュニティと融合する
⑥全員が同等
の「メンバー」や「全員」とは、必ずしも人間に限定されないと考えることも出来るかと思います。
調和したアートとしての時空における、人という素材
茶道の精神を凝縮した言葉として、和敬清寂というものがあります。
文字通り「和」は調和、「敬」は敬意。
茶道を茶室を舞台とした総合芸術と考えた場合、ひとつの道具がエゴを出しすぎたり、装飾品同士が食い合いをしてその空間の和を乱さないようにする。
装飾品同士の食い合いとは、例えば花の絵の掛け軸の前に花を飾るなど。
同じように、主客ともに道具や時間を共にする人達への敬意を表しながら、調和という時空の中にエゴを融合させる。
茶道を総合芸術とするなら、そこにいる人も「聖なるもの」として欠かせないアートの素材。
あなたは人生という遊び場でどんな総合芸術を創りますか?
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