論語の「五十にして天命を知る」を、発達心理学と仏教における悟りを基準に考えてみた

脳・心理学

年齢による人生の段階を表した言葉で、孔子の

五十にして天命を知る

があります。

こちらは論語の中の一節で、50歳は人生100年時代においては折り返し地点にあたる年齢。

この言葉とつながるお話を、先日伊勢のおかげ横丁で新酒が振る舞われる祭に行った際に聞くことが出来ました。

お話をしてくださったのは来年80歳を迎える伊賀焼を代表する窯元、土楽窯七代目陶工・福森雅武さん。

話は対談形式で、お相手は名張の木屋正酒造六代目・大西唯克さん、御年48歳。

福森さんは50歳を迎えようとする大西さんを指して、

これくらいの歳になると、自分というものがわかってくる。
生まれる時に持ってきたものが

と言います。

またこうもおっしゃっていました。

個性とは、創意工夫をして出すものではなく、削って削ってその果てに「これしか出ない」というのが個性

才能、性格、性質という表面的な意味ではなく、明言はしていませんでしたが孔子の言う「天命」のニュアンスも含んだもっと深い意味に聞こえました。

この「五十にして天命を知る」を、仏教における「悟り」の概念をからめ、発達心理学の観点で見てみようと思います。

発達とは、成長と衰退のプロセス、獲得と喪失のプロセス、死と再生のプロセス

発達心理学はかつては子どもが大人になるまでの精神の変化・発達を研究する学問でしたが、現在では成人してから死ぬまでの意識の発達も研究の対象となっています。

発達と聞くとその響きから、ついつい「成長の過程」だけを思い浮かべてしまいますが、発達とは成長と衰退を繰り返すプロセスです。

例えば生まれたばかりの赤ちゃんは歩くことが出来ませんが、ハイハイを経て歩けるようになり、やがては色々な動きが出来るようになります。

しかし身体が成長するにつれ体重が増え、柔軟性が減り、子どもの頃には出来た身軽な動きが出来なくなります。

ただ身軽な動きが出来なくなったかわりに、脳や神経が発達したことで、複雑で繊細な動きも可能となる。

これは言い換えると、獲得と喪失を繰り返すプロセスとも言えます。

獲得し喪失するものは、能力や感覚。

思春期に異性に対して持っていた幻想はほろ苦い経験を経て徐々に薄くなり、現実的な観察力が上がっていく。

結婚をし家庭を持つと独身だった頃のような気ままさはなくなるが、家族の温もりという新しい感覚が得られる。

子どもが大きくなり独り立ちすると、自分の手を離れる寂しさとともに、若かった独身の頃とは違う、死の臨場感が上がった上での「より濃い自由」を得る。

このように、発達とは獲得と喪失、成長と衰退、言い換えると死と再生を繰り返すプロセスです。

発達とは、前の段階を分離するのではなく、包みこんだ上で進むプロセス

獲得と喪失、死と再生のプロセスと聞くと、前の段階を切り離して次の段階に移行するイメージを持つかも知れません。

しかし健全な発達のイメージとしては、前の段階を包みこんだ上で進むというもの。

例えばひとりの男の子が成長し、30歳を過ぎたいい大人になったからといって、少年の心がなくなっている訳ではない。

いくつになってもスポーツに熱中したり、人によっては朝倉未来のBreakingDownのような企画に夢中になる。
(私もたまに見ちゃいます)

またひとりの女性が子どもを3人産んだ母になったからといって、「女」の部分がなくなる訳ではない。

配偶者がそこをケアしなかったらどんどんストレスをためていく。

このように、前の段階を包みこみながら進んでいくのが発達のプロセスです。

個人の死を次の世代の生が包みこむように。

社会に対してかぶる仮面と、抑圧する欲望の統合が始まるタイミング

私たちは、他者に対して自分をそのままさらけ出すのではなく、ある種の仮面をかぶっています。

会社では管理職の仮面をかぶり、社会に対しては何らかの専門家の仮面をかぶり、家庭では父親の仮面をかぶる。

この仮面をペルソナといいます。

ペルソナの裏には、抑圧された欲望、抑圧された自己が存在します。

例えば
「仕事の重責から逃げ出したい」
「品行方正と言われるが、奔放さに憧れがある」
「いつも子どもの世話をしているが、たまにはひとりになりたい」

など

この抑圧された自己をシャドーといいます。

ペルソナとシャドーは、あるタイミングまでは年齢を重ねるにつれ分離がどんどん激しくなっていきます。

赤ちゃんの頃は好きな時に泣き叫んでいれば、自分の要求も通り欲も満たされた。

しかし幼稚園や保育園に通う頃には、他の子どもたちや先生との関係性が新しくでき、その中で上手くやっていくかわりに100%のワガママは通らなくなる。

小学校に上がり中学校に入る頃には、「学校」という既存の秩序の中で、先生、友達、先輩後輩への身の振る舞い方を身につける。

しかし幼少期に比べ人間関係・考えることが複雑化してくるにつれて、抑圧する欲望・自己も複雑化しペルソナとの分離が徐々に激しくなる。

「勉強なんかせずに一日中遊んでいたい」
「あいつに会いたくない」
「将来のことを考えたくない」

など。

やがて高校、大学生活を経て社会人となり、何かしらの職業人・「専門家」としての顔(ペルソナ)を持つ。

「いい大人」としての外向きの顔が立派であればあるほど、生まれた時から抑圧し続けてきたシャドーはどんどん肥大化し、分離は激しさを増す。

(個人的には日本のA◯のジャンルの異様な豊富さは、ここに起因すると思っています)

学校を卒業し数年、場合によっては数十年かけ職業人としてある程度の社会的地位を得たり、望む結果は得られなかったとしても自分が納得出来るところまで何らかの達成を目指す。

この段階を経ると、自分が今まで大事にしてきた規範や役割も絶対的なものではなかったと気付き始める。

自分が大事にしてきたものの相対化が始まり、その呪縛から解き放たれる格闘が徐々に進行する。

その過程で、今まで「克服すべき」と思っていた自分の弱さ(抑圧された自己=シャドー)も、かけがえのない自分の一部だと知る。

今まで分離してきたその最も見たくなかった最も怖いものを直視し、それと向き合い、ひとつになる。

ここで、これまではペルソナとシャドーの分離のプロセスだった人生が、両者の統合のプロセスへと変わります。

統合が始まることにより起こる「重大な意識の飛躍」。その到達点としての悟り

上記のプロセスをたどるペースは個人差がある上、生まれ育った文化などにかなり大きな影響を受けます。

例えば現代日本のような、自由主義先進国では、何かしらの達成を目指す段階まではすんなり行くかわりに、その次の「自分が大事にしてきたものの相対化」に移行するまでの時間は長くなりやすい。

ただ、科学と宗教の統合を目指すインテグラル理論(ティール組織の元ネタ)を提唱するケン・ウィルバーいわく。

インターネットやSNSなど情報的に外の世界とつながるテクノロジーの発達により、かつてより「自分の大事にしてきたものの相対化」には移行しやすくなっているといいます。

インテグラル理論 多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル

そして彼の発達理論のフレームを作った発達心理学者クレア・グレイブスの言葉でいうと、統合のプロセスが始まると「重大な意識の飛躍」が起こります。

言語化は難しいですが、スピリチュアルゴリゴリな意味ではなく「人間として一個上の次元に来た」感覚です。

先に述べたようにこのプロセスをたどるペースにはかなり個人差があり、本当に早い人は20代で統合が始まる一方、もっと前の段階で生涯を終える人もいます。

闘病、投獄、倒産、離婚、愛する人との死別など、アイデンティティにおける擬似的な死を経験した人は統合のプロセスに向かいやすいようです。

そしてケン・ウィルバーいわく、この統合のプロセスにはまだ続きがあるといいます。

人はみな母親から産まれてきますが、母の胎内は胎児にとって宇宙そのもの。

その宇宙から分離し、年齢を重ねるごとに自分という存在もペルソナとシャドーに分離し、その度合いは大きくなっていく。

そしてペルソナとシャドーの統合を境に、分離のプロセスは統合のプロセスへと転じる。

再び統合された自分という存在・意識が「自分と感じる範囲」を拡大し、誕生前と同様再び宇宙と統合した段階が「悟り」だと彼は論じます。

アートマン・プロジェクト―精神発達のトランスパーソナル理論

この統合の進み具合を表した言葉が論語でいうところの

五十にして天命を知る

七十にして心の欲する所に従えどもその矩を踰えず

ではないかと考えています。

禅語の

一二三 三二一
(物事は一から始まり、最後また元の一に戻る)

老子の

徳を積んだ者は、子どもに匹敵するかも知れない

これらの言葉ももしかすると同じことを言っているのかも知れません。

まとめると、発達とは成長・獲得だけを意味するのではなく、衰退・喪失を伴い前の段階を包容しながら次の段階へ移行するという包容力を上げていくプロセス。

そのペースには個人差があり、生まれ育つ文化や物理的認知的に何を経験したかの影響を大いに受ける。

最も見たくない、最も怖いもの(シャドー)を直視しそれとひとつになると統合のプロセスが始まり、重大な意識の変化が訪れる。

もしかするとその先に悟りの境地があるかも。

というお話でした。

感想や掘り下げて欲しいところ等あればお気軽にコメントやお問い合わせください、それでは。

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