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日本

チンギスハーンなくして打ち上げ花火なし?大砲技術の平和利用

投稿日:2018年8月14日 更新日:

 

先日東海地方某所のそこそこ大きい花火大会に行って参りました。

数年ぶりの花火。いっとき暑さを忘れるほど綺麗でした。

 

この記事では、花火の起源と大砲やイスラム世界などとの意外なつながりについてお話します。

 

 

 

花火は上向き大砲

 

あの美しい打ち上げ花火。

実はその原理は基本的に大砲と同じです。

 

砲弾の代わりに花火を真上に打ち上げ爆発させる。

 

日本で最初の打ち上げ花火の記録は1613年。

徳川家康のいた駿府城二の丸で、イングランド王使節を案内した明国の商人が見せたものです。

 

ただこれは筒から火花が噴き出す単純なもので、今の打ち上げ花火とは違ったもよう。

 

さてその直後、徳川が豊臣にイチャモンをつけて始めた1614-15年大坂の陣は日本史上初の大砲撃戦。

 

この戦の後、江戸幕府は徳川家発祥の地・三河地方(愛知県)に火薬職人鉄砲職人を集め、火薬と鉄砲の製造を独占。

 

三河が花火職人を輩出するようになった理由です。

 

↑これは豆菓子。

 

大砲と打ち上げ花火。

一見関係なさそうな両者の歴史をひも解いていきます。

 

 

鬼に金棒・モンゴルに火薬

 

このふたつの共通点は、火薬を使う。

 

火薬はチャイナの三大発明のひとつ(残りは紙と羅針盤)で、唐(618~907)もしくは北宋(960~1127)時代の発明とされています。

 

ほほえましいことに火薬は数百年の間、祭で悪霊を追い払う目的か子どものおもちゃとしてしか使用していませんでした(花火)

 

が1205年。当時世界最強にして最恐のあの男が南宋(チャイナ)に襲来します。

チンギスハーンです。

 

じゃなかった。

 

当時のモンゴル部隊は、一度逆らった町に対しては捕虜をとらず完全に破壊し尽くすのがスタンダード。

 

13世紀後半に日本にやってきたモンゴル軍、いわゆる元寇(というものの参戦者はチャイニーズコリアンがほとんど)を鎌倉幕府が防ぎ切れていなかったら。

 

「日本」の歴史は確実にあそこで終わっていました。

 

チンギスハーンが残したとされる言葉で、「人生最大の楽しみは憎い敵を撃破しその財産を奪い、その馬にまたがり、その妻と娘を凌辱すること」というものがあります※

 

※ただしこの言葉は、いくらかの事実に敵を怯ませるための宣伝戦・被征服者の誇張が合わさっていると考えられるのでそのまま鵜呑みには出来ません。

とはいえ事実だとしても違和感はない。

 

モンゴル帝国は、意外かも知れませんが、

敵国にスパイを送り込み裏切り者を育てる&情報収集をくまなくしてから武力侵攻に及ぶという勝ちパターンを持っていました。

 

この言葉にも少なからず宣伝的意図が含まれていることでしょう。

 

その恐ろしいモンゴル軍が来る。早急に手を打たねばならない。

そこで戦に用いることにしたのが花火に使っていた白い粉、火薬です。

 

南宋は、点火口を通じて火薬に火をつけると矢が高速で発射される火槍(かそう)など、何種類か火薬を使った爆発する武器を開発しました。

 

1211年本格的な戦争に突入し、結果南宋はモンゴルに屈服。

 

これらの新兵器を手に入れ、彼ら自身も新たに兵器を開発したモンゴルは世界中でこれを使います。

元寇で使われた「てつはう」(一種の手りゅう弾)もそのひとつ。

 

 

世界を股にかける「大砲」

 

奇妙な爆発物のニュースは瞬く間に世界に広がり、アラブの人々は1250年までに「大砲」を持っていたといいます。

 

ただし命中率や精度など実用性は低い。ちなみにこの時代先進地域はヨーロッパではなく中東イスラム世界です。

 

現在の形の大砲が初めに造られたのはドイツとイタリア。

モンゴル帝国が東と西をつなげました。

 

大砲は英仏百年戦争(1337~1453)や、これまた1453年オスマントルコ帝国によるコンスタンティノープル(現イスタンブール。当時は東ローマ帝国領)攻略に大きな役割を果たす。

 

16世紀当時地球上で最もブイブイいわせていた海洋国家ポルトガル・スペインは、軍艦装備用の小型大砲を量産。

 

日本を含めアジア諸国はそれらを輸入することになります。

 

 

ちょっとアブナイ大人のおもちゃ

 

大坂の陣で完全に徳川の天下となった江戸時代の日本。

 

1659年江戸に出た大和国(現奈良県)生まれの鍵屋弥兵衛は、葦の管に火薬球を入れる「花火」という玩具を開発、これが大ヒット。

 

幕府は防災上の理由から江戸市中花火遊び禁止令を何度も出しています。

 

ホースもポンプもなく、瞬く間に炎が近隣に燃え広がる木造建築が密集していた当時の主たる「消火活動」。

 

それは、火を消すことではなく燃え移らないように火元や隣の建造物を破壊することでした。

火災の深刻さは現代の比ではありません。

 

そんなこんなで花火熱はいっとき「下火」になりましたが、1733年八代将軍徳川吉宗が隅田川で慰霊祭を行いました。

 

前年西日本を襲った享保の大飢饉の死者を弔うものです。

 

ちなみにこの時最大の凶作となった瀬戸内海において。

気象災害に強いサツマイモを栽培していた大三島だけが餓死者をひとりも出さなかったことをきっかけに、吉宗は政策としてサツマイモを全国に広げました。

吉宗は米将軍と呼ばれていますがイモ将軍でもあったのです。

 

慰霊祭では川に灯籠が流され、花火が打ち上げられました。

のちに「両国の川開き」と呼ばれる、日本最古の花火大会の始まりです。

 

 

たまや

 

ここで6代目鍵屋は主役をつとめました。

 

7代目鍵屋番頭の玉屋清吉がのれん分けで1808年「玉屋」を創業。

両国橋を境に上流を鍵屋、下流を玉屋が担い花火を競いあいました。

 

観客は、現代のMCバトルのように良いと思った業者の名前を叫ぶ。

 

たまやー

かぎやー

 

かぎや より たまや のほうが知られている理由は、玉屋のほうが評判が良かった、発音のしやすさなど諸説あります。

 

しかし玉屋は1843年に半丁(50メートル強)の町並みを焼失させる事故を起こしてしまい、財産没収のうえ江戸を追放され1代で断絶しました。

 

鍵屋は株式会社宗家花火鍵屋として現存。

今ではどこでも観られる、同心円状に飛散する花火を明治時代に普及させました。

 

明治には海外から様々な化学薬品が入り、橙色の強弱で表現するにとどまっていた花火に多様な色が加わり明るさも大きく変化。

現代の花火に至ります。

 

火薬・大砲と、人々の心をとらえる打ち上げ花火。

チャイナ・モンゴル・イスラム・ヨーロッパ・日本。

 

繋がっていないようで繋がってました。

今回の記事も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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平成元年生まれ男。

4tトラックに左足を潰されしばらく体を動かせなくなる。

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現在はポーカーからゲーム理論に入り、いわゆる理数系ジャンルも少しずつ勉強中。

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